旦那の死まであと1日③ 2人きり
やっと旦那と2人きりになれた。
といっても旦那は強い薬を点滴されていて眠っている。
いびきをかいてヨダレを垂らして、ひどく痩せてしまったこと以外は、一緒に寝ていた頃と同じ。
たまにヨダレをふいて、唇が乾燥していたのでリップクリームを塗ったりして過ごした。
まだ何をしていいかよくわからずに、旦那の枕元に座って話しかけながら本を読んだりお菓子を食べたりもした。
たまに目を開けるけれど、すぐまた目を閉じてしまう。
起きてよ〜お寝坊さんだなぁ〜とか言ったり、
息子の動画を見せたりしているうちにあっという間に夜になった。
泊まり込みだから、病室には簡易ベッドを入れてもらった。
ベッドというかストレッチャーでしょ…というような代物だけど。
結局そのベッドに寝ることはなかったけれど。
夜の10時を過ぎたあたりから、旦那は目を開けている時間が長くなってきた。
看護士さんが、今は起きてるから、話しかけたら声は聞こえていると思いますよ、と言ってくれたので、たくさんたくさん話しかけた。
アンモニアが脳にまわってしまったせいで話すことはできなかったし、私がいることをわかっていたかもわからない。
でも、起きてくれたの〜♡と、私は喜んで、
義弟が言っていたこと、それから万が一義弟の肝臓が適合しなくても私がいるから安心してね、とか、息子のたわいない話とかを喋り続けた。
しばらくすると、15分に一回くらい、体が痙攣するようになった。
肩をさすったりすると落ち着くから、そのまま様子を見ていた。
看護士さんも定期的に来てくれて血圧は普通だとか、痰をとってくれたりとかもしていたし、大丈夫なんだろうなと思っていた。
だけどそのうち、初めは15分に一回程度だった痙攣が、頻繁に起きるようになった。
旦那の死まであと1日② 義弟とのこと
お義母さんの次は義弟、最後にお義父さんが面会をした。
前も書いたけど私は義弟の顔も見たくなかったので挨拶も碌にしていなかったけど、
面会から戻ってきたら彼が目を真っ赤にして人目も憚らずに大泣きしながら言ったことで、私の心は氷解した。
「あのとき、お義父さんが頼みに来たとき、奧さんがあんなこと言っちゃったけど、時期までにはかならずわかってもらえるように説得するつもりだった…」
旦那は、肝移植以外にもう助かる道がなかった。
でもアルコール性の肝臓疾患の場合、禁酒期間がないとドナー登録はおろか、生体肝移植もしてもらえない決まりがある。
肝臓が本格的に壊れる人はもはやアルコール中毒であり依存症だから、移植でよくなったとしてもいただいた肝臓をまたすぐにダメにしてしまう可能性が高いから。
理解はできる。
ただし当事者でなければ。
肝移植しか助かる手段のないくらいの病状の人が6ヶ月生きることはほぼ奇跡に近いことらしい。
そんな自業自得で体壊した人が脳死ドナー登録はできないとしても、肝臓あげる側が納得してるのになんで待たなきゃいけないの?
その間に死んじゃうよ!と思う。
とにかくそんな事情でお義父さんが義弟家族にドナーのお願いに行った時、話を聞いた嫁の第一声が、
「え!娘の保育園も決まって私の職場復帰もあるのにそんな!」
だった。
そう言って泣き崩れた嫁と、無言の弟を前にお義父さんは退散するしかなかったと。
…わかってる、完全な逆恨みだと。
ドナーになるなんて難しいこと、はいはいと即答できるわけない。
でも、わかってはいても、旦那を傷つけるようなことになった原因を許せなかった。
もし反対の立場なら、旦那だったら即答していたと確信している。
アル中でだらしがなくて、どうしようもない旦那だけど、そういうアツさのある人だったから。
それで自分が損しているのも何度も見ていて、正直、なんでそこまでするのよと思うこともあったけど、
同時にそれが旦那の好きなところでもあった。
そんな逆恨みから義弟の顔を見るのも嫌だったのだけど、
泣き崩れる擬態を見て、
あ。もういいや。と思った。
恨むのをやめようと。
旦那にはずっと、肝臓は私があげるから、
あなたは体力をつけて、手術の日を待つだけだよと何度か話していた。
だから旦那は最期の最後まで希望を捨てないで、生きようと頑張っていた。
旦那は傷ついていなかったと思うことにした。
そして3人は翌日またお見舞いに来るからと言って帰って行った。
旦那とやっとふたりきりになれる時間だ。
旦那の死まであと1日①
付き添い日。
金曜日だったこともあり、午前中は息子を保育園へ送り、家で少し自分の仕事をこなす。
休みをもらったとはいえ、やっておきたいことがあったし、今は週の半分はテレワークだから、家でも仕事をする環境は整っていた。
でももしかしたら…病院のこと、旦那のことを考えたくなくて、無理にやらなきゃと思い込むことで逃げていたのかも。
仕事を休んでくれた父に車で送ってもらい、病院へ。
泊まり込みになるから、母はしきりに甘えん坊な息子を心配していた。
2歳になったばかりの息子は、人一倍甘えん坊でママっ子だ。
遊びによほど夢中になっていない限りは、家でママがトイレに行くと必ず追ってきてドアを開けるw
やめてよー!と言うと、笑いながらドアを閉めるふりをして、また、バッ!とドアを開けて笑ったりしている。
たまにうっかり鍵をかけてしまっていると開かないので、廊下に転がって泣く。。
保育園に行く時もそう。
同年代の他の子がママにバイバイしている中、1人だけごねるごねる。泣くことも少なくない。
そんなだから母は夜のことをとても心配していたのだと思う。
そんなこんなで病院に到着。
すでに、旦那の両親と弟は到着していて、私が15階の病棟に上がると、見るからにどんよりした雰囲気の3人の背中が待合室の中に見えた。
待合室は一面がほぼガラス張りで新宿の高層ビル群が一望できて、気持ちの良い部屋で、
金曜日は天気がとても良かったこともあって、どんよりした3人が不釣り合いだなーとか、どうでもいいことを思ったのを覚えてる。
病院についた段階では、旦那は眠っていた。
昨日からすごく痛がっていたから、強い痛み止めに変えたらしく、そのせいもあるとのことだった。
私はある理由があって義弟には会いたくないと思っていたので最初の挨拶の時は目も合わせなかった。
コロナ対策で面会はPCR陰性が判明している私を除いては1人ずつ、最大10分までと決まっていたので、お義母さんから順番に、面会をすることになった。
旦那の死まであと2日③ 1ヶ月ぶりの再会
PCRを受けて、旦那に会った。
その部屋はナースステーションから扉一枚入ったところで、看護師さんが2人お世話をしてくれていた。
肝性脳症といって、まだ意識はあるけど何をどこまでわかっているのか、わからない状態。
それでも痛みが酷いらしく、「痛い痛い…痛い…」と言っていたのもショックだったけど、もっと驚いたのはその痩せ方。。
土色の顔は頬がこけ、黄疸の出ている白目がギョロリギョロリと動いている。
パジャマから覗く腕は、筋肉質だった頃の見る影もない…
コロナ禍で会えてないうちにこんな風貌に…とまた悲しくなったけど、泣かなかった。
旦那は、私や、お義父さんのことはわかったと思う。
手を握ってくれたし、息子の名前を出したらときには
「え?何?もう一回言って」
というようなことを言ってくれたから。
しばらくお部屋で旦那の手を握って、
「また明日くるからね!」と言って帰った。
返事はなかった。
痛みでそれどころではない様子。
その日はそれで帰ることにした。
私は子供のお迎えにご飯、お風呂と色々やらなきゃいけないことがある。
まず会社に休みの連絡。
これはすんなりOK。
ビバホワイト企業!
次に実家に電話して報告して、付き添いの間は息子の世話を頼みたいお願いしたら、快く引き受けてくれた。
これまたありがとう両親。
助けてくれる存在が近くあってよかった。
これでお膳立ては済んだ、と一服しつつ、
それにしても辛いなぁ…とため息をついていたら、母親からLINE。
「心細かったから今夜も帰っていらっしゃい」
ありがたく従うことにした。
そして、付き添いの日。
まさか昨日の会話が、旦那との最後の会話になるなんて。
そのときは思ってもいなかった。
旦那の死まであと2日② 延命はする?しない?
病院から、急変したと連絡があったのは亡くなる3日前のこと。
呼び出されて、お義父さんと一緒に先生の話を聞きに行った。
病状の説明や、心拍停止した際の対応について話を聞きながら、初めてみんなの前で涙が止まらなくなった。
旦那は移植をして、治るものと思っていたからだ。
そうか。移植まで体、もたないのね…。
死ぬときは家で…と言っていたから、
「この状態で退院することは難しいですよね?」
と聞いたら、
「それは無理だと思います」
と言われてしまった。
そりゃそうか。家じゃ多分痛み止めだって打てないし、帰っても辛いだけだよね。
心拍停止したら延命はどうしますか?と言われて、咄嗟に答えられないでいたら、義父さんが
「この人(私)が駆けつけるまでの間だけ、お願いします」
と言ってくれた。
今の状態で心臓マッサージをしても、肋骨も折れるから辛いだけですと言われたので悩んだのだけど、義父さんがきっぱり決めてくれたのでそれでお願いすることにした。
私はただただ、涙を流すだけ。
付き添いに備えて、PCR検査を受けることになった。
インフルエンザの検査と同じような感じだった。
旦那の死まであと2日① 急変
旦那の最期に立ち会ってから2日経った。
今の私は浮いたり沈んだり、気持ちがコロコロ変わる。
浮くこともあるのは、2歳になったばかりの可愛い息子がいるからだ。
何もわからない無邪気な息子が、甘えてきたり、変顔をしたりするとその一瞬は幸せな気持ちになる。
さて、旦那の最期について。
旦那は約2ヶ月の入院、闘病の末に亡くなった。
入院当初、いつ急変するかわからないと言われていた容態は小康状態と言われるまでに回復したものの、亡くなる2日前にまた急変。
いつどうなるかわからないということで、個室を確保でき次第、病室に付き添うことになった。
コロナ禍、荷物を届けに行っても会わせてもらうことがずっとできていなかったから、そんな状態とはいえ「一緒に過ごせる!」と嬉しい気持ちもあった。
嬉しいというのも変ね。でもやっと会える…という気持ちもあったのは本当だ。
20週✳︎思い出しイライラ
日頃はつわりもなく落ち着いた日々を過ごしているのだけど、ごくたまにマタニティブルー?に陥ってふさぎこむ(orイライラが爆発する)ことがある。
この日もそうだった。
忘れもしない今年の3月末、わたしはゴールデン街の精鋭たちと花見に出かけて昼間からハイペースでシャンパンをぱかばか開けていた。
おかげで夕方にはすっかり出来上がって、千鳥足でなんとかリョータさん好物のビアードパパのシュークリームを購入して帰宅、帰宅した途端にリバース。
飲み過ぎちゃったなーとか言い訳しながらリョータさんに用意してもらった夕飯のステーキをぺろりと平らげ、また直後に盛大に吐いた。
翌日は月曜だったのだけど病院に行ったら胃腸炎だった。熱も40度近く出て歩くのもやっと。
帰宅するとたまたま?休みだったリョータさんがしこしことローストビーフを仕込んでいる。
キャバクラに差しいれる用の…!!
そっか、わたしが熱出てようがゲロ吐いてようがキャバクラには行くのですね。
わたし、今日くらいは家にいてくれると思って少し期待しちゃったよ!(照)
そんな数ヶ月前のことを思い出して少しなみだがこぼれました。
これがマタニティブルーというやつなのでしょうか…。